ケン・スミス「誰も教えてくれない聖書の読み方」

 ビョルン・ロンボルグ「環境危機をあおってはいけない:地球環境のホントの実態」が少々値がはるので、代わりに同じく山形浩生翻訳のこの本を借りてきた。この本は、聖書に記載されている色々な変な箇所を指摘しています。カバーには、こんな風に説明されている。

聖書と言う本は、読む人の勝手な解釈で語られすぎてはいないだろうか。都合の悪いとことは後代の創作や脚色にされるし、都合のいいところは妙な強調のされ方をする。でも、聖書をいろんな脚色を抜きにして、そこに書かれているとおりに読むとどうなる? ちゃんと読めば、たとえば旧約聖書は一貫性のない神さまがひたすら残虐行為を実践しているのばかりが目につく本だったりするし、新約聖書はイエスという奇人を主人公にした荒唐無稽な物語だったりすることがわかるだろう。

これが結構笑えます。普通に。なので、まだ読み終わってないのですが、ちょっと紹介してみます。で、二つばかり気に入った例を引用してみます。あわせて新約聖書の該当箇所も引いておきます。比べてみてください。

イスラエルの民、アマレクの民と交戦。モーゼは丘の上から見物。モーゼが手をあげると、イスラエルの民が勝つ。残念ながらモーゼは80歳なので、疲れて手をおろすたびにイスラエルの民は負ける。モーゼのつきそい二人がこの問題を解決した。モーゼを石にすわらせて、二人がその両手を持ち上げておく。これで戦争に勝ちました。---出エジプト記17:10-13(46)

ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持ってきてモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりち上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。

どうですか、このトンでもぶり。さすがに読んでて笑いました。あともう一つ引用。

イスラエルの民のなかには、毎日マナばかり食べるのに飽きてきた人たちもいて、肉をくれと神さまに頼んだ。神さまはぶつくさ言ったものの、ウズラの群を送ってやる。そこでやっぱり腹をたてることにして、肉を食った者たちを疫病で殺す。---民数紀略11:4-5, 31-34(53)

エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。
さて、主のもとから風がでて、海のほうからうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上二アンマほどの高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ないものでも十ホメルは集めた。そして、宿営の周りに広げておいた。肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロ・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人をそこに葬ったからである

こっちもかなりすごい。というか、ありえないでしょう。
 と、こんな感じのツッコミが盛りだくさんのこの本。この二つは、まだ旧約編ですなので、まだまだ新約も残っていますし、今後が楽しみです。しかし、長くなった…。